2007年02月15日

◆雪崩の事故は…義弟のヒマラヤ遭難事故を思い出す


◆雪崩の事故は…義弟のヒマラヤ遭難事故を思い出す


「天は我々を見捨てたか…」…これは…
1977年に公開された映画『八甲田山』では
210名の青森の連隊が雪中行軍の演習中に猛吹雪の中で立ち往生
その時…北大路欣也が演じる「青森歩兵第5連隊・神田大尉」が
云った言葉として…一時期、流行した。
1902年の実際にあった大人数の遭難事故だった。

図らずも…2月14日午前11時過ぎ…
その遭難現場にほど近い八甲田・前岳(標高1252m)の
「後藤伍長ルート」(前述)の山頂付近は…
積雪3m以上
風速30mの猛吹雪で
5〜6mの視界しかなく
そこで雪崩が発生し山スキーのツアーメンバーが巻き込まれ
2人が死亡したという遭難事故が起きた。

前進することへの想いより
止める勇気、止める決断が…
リスクをどこで食い止めるかの判断が大切だったのです。

これも…
「未必の故意」と云うには酷かも知れないが…
雪山登山…遠い過去ではあるが…
前例のある…吹雪遭難事故のコースでの登山行は
雪崩を予測できなかったのか…
それとも…単に情報不足だっただけなのだろうか。
快晴の日の「スキーツアー」と安易に考えてはいけない。
「雪山登山」とは考えられなかったのだろうか。

吹雪の雪山で行動することが
いかに危険であるかを改めて教えられることとなった。

雪崩事故…雪山遭難のニュースを聞くと思い出すことがある。

1981年9月末…
ヒマラヤのナンダカート(6611m)山頂を目ざし
7人の若者達が登山をしていた。

一行は…日本ヒマラヤ協会の登山隊で
ピンダリ氷河上の6000m付近に設営した
第3キャンプで宿営し
定例のベースキャンプとのレポート交換を終え…
「お寝すみなさい…。また明日…」の最後の交信をした後…
突然…雪崩に遭遇し、
第3キャンプにいた7名全員が…
瞬時のうちに雪崩に巻き込まれ遭難死するという
悲惨な雪山事故が発生した。

義弟の「藤倉和美」がその7人のメンバーの中の1人だった。

急遽…編成された岳友達による「遭難捜索隊」が…
危険な雪山に挑み…必死の捜索活動を続けたが
遺品の一つさえも見つかることはなく
遭難した彼らは…
遠いヒマラヤの雪に埋もれたまま
今も静かにねむり続けているのだ。

数十年後…、数百年後…に
ヒマラヤの氷河のどこかで…
ふたたび空気に触れる日が来るのだろうか。

街角で見かけるヒゲ面の大きな背中の男性を見かけると…
少し早足で追い抜き…前に回って顔を確かめる…
東京の街中になんて居るはずもないのに
「行ってきます〜」と
大きな声で挨拶して出かけていった時のまま
小さな時計が止まったままでいるのです。
posted by 寛良 at 23:35| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ◆ある日、ある時のこと… | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
高校時代の山岳部先輩を思い出しネット検索をしていたところこの記事に遭遇いたしました。
 先輩の名は鈴木陽一氏、山岳部1年のときの部長です。
 実は義弟の方と同じ遭難事故で亡くなられたました。 今もヒンダリ氷河の厚い氷の下で当時のままの姿で静かに眠るだろう先輩は好きな山に抱かれて本望なのだろうか、それとも婚約者の方が居られたとも聞くが、非常な危険を伴うヒマラヤの山に挑戦したことを後悔したのだろうか、大雪崩にテントごと飛ばされその後巨大な雪の圧力で押しつぶされていく瞬間に何を思ったのだろうか、5月まだ雪深い北アルプスに登り雪の山々を眺めながらふとそんなことを今でも思うのです。
遭難され今もヒマラヤに眠る7名の方のご冥福を祈ります。
 
Posted by 久保田昭彦 at 2010年07月03日 19:55
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